第3部

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 目が覚めても、身体は布団から出ようとはしなかった。全身がじんじんとしびれているような感触があった。意識して布団から手を出す。十二月の冷え切った空気が容赦なくその皮膚を刺激する。反射的に手は布団の中へ潜った。そして意識は再びまどろみの中へと沈んでいった。

 次に目が覚めたのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。太陽がカーテンの隙間から入り込み、部屋を暖めつつあった。今度こそ、と意識を布団の外に集中させる。腹筋に力を込める。この動作には違和感がない。もう一度、腹筋。上半身を持ち上げると同時に、すばやく布団を蹴飛ばした。ベッドから転がり、床に足を突いた。ここまでくれば、さすがにもう二度寝はないだろう。両足の感触を確かめながら、一階のダイニングへと向かった。

 ダイニングには既に朝食が用意されていたが、飯も茶碗も凍ったように冷たかった。黙って電子レンジに入れ、一分待つ。その間に箸を取り出し、暖まった飯を食べる。一度冷えてしまった飯の味は、よく分からなかった。

 カレンダーを見て、今日が月曜だということを思い出した。憂鬱な気分になる。リビングに行けば母もいるはずだったが、声をかけるのははばかられた。

 憂鬱を引きずったまま自分の部屋へ帰る。机の上のコンピュータに触れて、今日の課題を確認する。案の定、今週分の課題が山のように課されていた。とても課題をやる気分ではなかった。おもむろに布団を掴んで蓑虫のように纏った。俺の意識は再びここで途絶える。気がつくと一時間が経過していた。

 なんとかしなければならない。高校に行け、とまでは言わない。だが、せめてこの課題を処理して、単位を取らなければならない。俺は一応大学教授の息子だ。ここで人生を放棄するわけにはいかないのだ。

 けれども課題を目にすると、俺の目は次第にぼやけ、四肢は力を失っていく。俺が努力しようともがけばもがくほど、身体はいうことを聞かない。こんな状況が一年以上も続いているのは奇怪だった。

 高校へ通っていた俺を襲った。様々な病院を巡ったが、原因はよく分からなかった。精神科が言うには、過眠症の可能性があるとのことだったが、処方された薬を飲んでも症状は改善されない。けれども俺は薬を飲み続ける。プラシーボでもいい。せめて何か活動を続けて、意識を鮮明に保つ。それがここ一年間の中で身についた対症療法だった。

 そうだ。とりあえず服を着替えよう。衣服は心をリフレッシュする。鮮やかな意識は力となって、身体を駆動する。続いて窓を開ける。たちまち冷気が部屋へと侵入してくる。ただそれだけのことで、生存本能がたちどころに活動を始める。良い環境だ。

 再びコンピュータの前に座った。英語の問題を中心に何問か解いた。課題の難易度自体は大した物ではない。各単元にテーマとなっている文法要素や単語群があり、問題は必ずその中から出題されるから、最初の部分さえ理解してしまえばいい話だ。けれども、問題を解き続けるに従って徐々にペースが落ちてくる。頭では答えが分かっているのに、指先の動きが遅延する。すると、間違ったところをタッチしてしまう。長々とした解説が表示される。下までスクロールしないと次の問題へは進めない。

 この学習アプリはこういう部分がストレスだった。自分の意志ではどうにもできないにもかかわらず、平均点が落ちてしまう。

「ふう」

 きりのいい問題までを終え、一息ついた。頭部にかすかな痛みを感じる。ストレスの溜まる作業を継続するのはよくない。集中力は消耗品だからだ。手を休め、回復を待つ。時計を見ると、既に十二時を軽く回っていた。

「そろそろ昼飯か」

 階段を降りる。降りるとき、意識して手すりに手を掛けなければならない。意識と身体とのラグが、万が一事故に繋がったらどうしよう。そんな恐怖があった。

 ダイニングではすでに母さんがパスタを食べていた。母の目は俺に向けられることなく、卓上に広げられたカタログを見ていた。俺の分の皿も隣に用意してある。

「おはよう」

 おはよう、とだけ返すと、それ以上は母何も言ってこなくなった。カタログに集中しているので、俺からも特に話題を振ることはない。ただパスタをフォークに絡め取る作業を続けた。

 ごちそうさま、と言って立ち上がったその直後、急に満腹感が頭の中を支配し始めた。これはまずい。ダイニングの暖かい空気が俺にとっては不都合だった。ただちに部屋を出ると、冷気が俺の意識を助ける。素早く自室に戻り、コートをつかんで外へ出た。息は上がっていた。

 母は何も言わなかった。

 緊急時に外に出るのは、一つの習慣のようになっていた。意識を保つためには、身体を動かし続けるのが一番いい。動いている間、身体は脳のことを忘れてくれているような気がする。環境や自然が、身体を解きほぐしてくれる。

 律己の身体は、そんなに俺の脳が嫌いなのか?俺にはどうして律己の身体が、俺に抗おうとするのか理解できなかった。律己との約束を思い出す。当時の考えからすれば、律己の身体は律己のものではなくなっただ。そしてそれは誰のものでもないのと同じである。

 俺は少し歩くことにした。外を散歩するのは、最近の数少ない楽しみの一つになっていた。それはこのところ天気が悪いことも幸いしているかもしれない。北風が力強く吹いて、俺の身体を押す。俺の身体だ。お前は自分の思っているほど、自分勝手には生きられないぞ、と。俺は自分の身体に呼びかけた。北風がコートを煽った。

 住宅街をしばらく歩くと大通りへ出た。数台の自動車が通り過ぎていった。今日はそれを追いかけるように進もう。俺は足を坂道の上へ向けた。

 坂道のそばには並木が植えられているが、その葉は全て散り、枝だけを風に吹きざらしにされているのがなんともかわいそうだった。けれども彼らは春になれば、新芽と葉を茂らせる。

 俺は散歩が好きだ。目の前の些末な問題を忘れ、より大きなものとふれあえる。そんな気がする。

 車道をまた自動車が走りすぎる。自動車は嫌いだ。見る度に言いようのない不快感が俺の胸を締め付ける。

 かつて、自動車はペダルとレバーで運転されていたそうだ。その為、世の中では交通事故が絶えなかったという。今では行き先を地図で選択するだけだ。俺たちは移動を機械に任せることにした。結果、自動車の中は団らんのための空間になり、目立たない部分にブレーキペダルが残されるだけになった。

 俺が自動車を好きになれないのは、その中途半端な進化のせいかもしれない。仮に自動車が事故を起こしたとしても、責任は搭乗者がとらなければならない。ブレーキなんて存在しないみたいに、自動車は自由にルートを決めるのに。

 そんなことを考えながら自動車の尻を追いかけていると、やがてT字路に辿り着いた。さて、どちらに進むべきか。左手を見ると、弟の通う高校のものと思われる、体操着を着た生徒達が走っているのが見えた。一方、右手に進めば溜め池がある。普段は静かな池。しかし、今日は風が強いから危険かもしれない。せっかくだから、高校を見物して帰ろう。

 俺は軽い気持ちで左へ進むことを決めた。

 弟の通う高校は、この地区有数の進学校だ。俺がかつて通っていた——現在所属していることになっている高校とは違う。弟は昔から頭が良かったから、そうなるのは当然だと思っていた。

 今考えれば、この時の決断が俺たちの運命を狂わせたのだ。弟は順調に好成績を修めていたし、友達関係も良好そうだ。毎日夜八時頃まで部活動に励んでいるので、俺とは特に話し合うこともない。一方の兄はこのざまだ。笑うしかない。

 このゆるやかな上り坂は、俺の上るべき道ではない。引き返そうと思った。全身の関節がうなった。足はどんどん坂道を登っていく。これは、まずいパターンだ。その方向に行くべきではない。弟の高校に行ったからといって、一体何があると言うのか。

 一度動き始めた身体は止まろうとしない。無意識に蹴り飛ばした石が、坂道を転がって水平線の向こうに消えていった。俺の足は半自動的に回転を続けた。小脳。その運動を司る脳の部位が、まるで機能していなかった。身体が意識を引っ張って、強引に丘の上へと連れて行った。俺は思わず目を背けた。

 が、行動は違った。俺は目を見開いて、眼前に広がる光景を思い切り網膜に焼き付けた。

 丘の上に立つ純白の校舎が見えた。

 手前のグラウンドには、生徒の群れがいる。おそらく体育の授業中だ。そしてグラウンドと校舎の間には小川が流れている。幅は一メートル程度の小さな川。俺の足は、よたよたとその川へと向かっていった。グラウンドで練習している連中は、俺のことに気付かないらしい。

 小川まで達すると、白い校舎が一段と大きくそびえ立っていた。俺は恐怖した。意識を全力で取り戻さなければならない。目を下方へ向ける。川だ。そこには川があって、醜い俺の姿を鮮明に写していた。しばらく髪を切っていないため、ぼさぼさで、無精髭も見える。俺の足は意志とは全く無関係に、ジャブジャブと小川へ入っていった。両手で水をすくい、顔を洗った。そこで、再び意識が鮮明になった。俺は水の冷たさに驚き、急いで川を出た。

「お前は、今のお前の姿が嫌なのか?」

 俺は自分の身体に語りかけた。彼は答えない。ただこいつは、行動を持って俺に意図を伝えようとする。

「クソッ!誰のせいでこうなったと思っていやがる!」

 俺はふたたび意識した。曇り空を見上げ、冷え切った四肢を振るい、足早に元来た道を帰った。